忍者ブログ
忍者ブログ [PR]
広島・岡山 での シーカヤック & その他 を記録します。
プロフィール
HN:
けいた
性別:
男性
職業:
職人
趣味:
カヤック ウクレレ ピアニカ 漢方
自己紹介:
後期中年の自営業
3シーズンは 海にキャンプへ、
冬は おうちで漢方の勉強、
そんな日々を過ごしています。
今の愛艇は ノーライト シオン。
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
最新コメント
[03/25 懐園]
[03/07 懐園]
[03/01 懐園]
[03/01 懐園]
[02/11 バラキ]
忍者カウンター
P R
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

疲れと 事務仕事が溜まってしまったので、7月最初の週末は完全休養に当てました。
さて6月の最終土日に伊予大三島の大山積神社に参拝した事は先日書いた通りです。
で埋草に、そちらの宝物殿に収められていた、伝「鶴姫の鎧」について思った事を。

論点は「なんでボディラインに沿わした仕上げなのだろう?」です。
寡聞にして私は国内で この鎧以外で、
ここまでウェスト部分をハッキリ絞った形を見たことが有りません。
鶴姫の鎧  鶴姫図

「女性だから」なら、同時代の巴御前の鎧姿はどうだろうかと見てみると
男性と共用の大鎧、つまりウェストはさほど絞られては いないようですね。
また現代の武者行列で、女性武者を演じる方達のソレも同様のようです。
現代

「陸戦以上に、海戦ではフィット感が重要だった」からでしょうか?
なら男性用の鎧であっても、男女の体型の差からくる差異は有るでしょうが
シェイプとしては、同様に脇は絞られている筈です。
鶴姫の鎧と同じく大山積神社に奉納されて展示されていた 伊予水軍の総帥
河野氏の鎧は、やはり通常の大鎧なのでソレも違うと思われます。
河野通信の鎧

では海外ではどうでしょう。
確かに西洋の鎧と聞いて浮かぶものは、下図左のような
体型に沿った形のイメージがあります。
しかしこれは「プレートアーマー」と呼ばれるモノで、どちらかと言えば
身分が高い=リッチな=少数の人のみ が着用した形式だそうです。
実際は日本と同じく縅した鎧(ラメラー)が長い間使われていました。
プレート   縅し

では何故日本ではプレートアーマーが生まれず西洋で発達したかですが
西洋では攻城兵器が発達し、その応用として強力なクロスボウ等の
飛び道具が開発された為、鎖帷子や縅鎧では防げなくなったからです。
勿論プレートアーマーにも欠点は有り、「重い(50kg前後)」
「高価な金属を多用」「可動制限が大きい」等が普及を妨げました。
その点 日本では種子島の導入まではせいぜい重藤の弓程度でしたから
これらの欠点に目を瞑ってまでプレートメールを産み出す必然性が
なかったと言えます。
そして見れば解るように、西洋でもラメラーは体の線に沿っていません。
ルーズフィットにする事で下にキルティング等を着こみやすくして
メイス等による打撃の衝撃に耐えるのにはその方が有利でもあります。
プレートメールは少しでも「軽量化」「戦闘や騎乗時に邪魔にならない」為
体の線に沿わせる必要性が生まれたと言えます。

ではでは鶴姫の着用していた縅し鎧の
あのフィットぶりには、どのような必然性が有ったのでしょうか?
札数を減らす事での「軽量化」は、さほど期待できないと思われます。
ならば「戦闘遂行や操船に有利」でしょうか。
当時の船戦は、矢合わせから始まり、敵船に乗り込んでの白兵戦で決まります。
鶴姫には巴御前のような、個人的な物理的武勇が伝わっていない事から
戦闘能力を期待されたとは考え難いですし、
また「姫」と呼ばれる身分である以上、水夫仕事をしたとも思えません。
よって利便性、実効性から鎧をフィットさせる必然性は見当たりません。
ならば「利便性、実効性」以外の観点から、必然性が生まれたと思われます。

結論から言えば「カリスマの獲得」ではなかろうか です。
ざっと来歴を見ると彼女は大三島の支配者 大祝氏の当主の陣代として
対大内氏戦で初陣したのが16歳の1541年なので、金森長近と同世代です。
1543年に陶隆房率いる大軍を、恋人の決死的行動と引き換えに撃退した後、
世をはかなんで自殺した事になっています。
先にも述べた通り、個人的な物理的武勇伝は特に伝わっていません。
とは言え 海戦での指揮能力の優劣は、そのような個人的武勇以上に
自船隊を如何に指揮して、敵船隊を分断 或いは包囲して、有利に戦局を
産み出すかによりますから、その事自体は陸戦程には重要ではないようです。
現に能登守教経に源義経が追われて 逃げまくった事についても
無様とは言わず「八艘飛び」と、逆に賞賛されているほどですから。
しかし鶴姫が、河惣益巳の描くサラディナーサばりに
優秀な海戦指揮官であったか?については否とも 是とも どちらとも言えません、
何しろ具体的な戦略や戦術のスコアが残っていません。
ただ日本の中世における女性の地位や役割は結構高く、それに伴う責任も重く、
個人的な感慨で命を絶つような、無責任な行動を取るとは考え難いと言えます。
ましてや救国の女傑として持て囃されているなら、その本人がいなくなるのは
一族や自国、協力国に多大な迷惑と損害を与える事になりますから。
下手したら、その死を奇貨として 他国が攻め込んで来る訳ですからね。
僕が考える現実としては、
「前回の遠征を失敗した大内氏は、必勝を期して名将陶晴賢を送り込んできた、
 前の戦いで座り大将だった鶴姫は縁起が良いし 戦意高揚に役に立つ、
 じゃあイメージリーダーとして鶴姫を前面に押し出そう、
 それなら神功皇后にあやかろう、ならば女性を強くアピールしよう、
 じゃあ女性と一目で解るウェストを絞った鎧で、御座船に居て貰おう。」と、
そして大祝氏が神主を務めるオオヤマツミ神社は日本の海神の元締めですから
キャッチコピーは「我らには海神の申し子の加護がある!」だったろうと、
こんなでは無いかと思われます。
そして同年に大内氏は、出雲遠征に失敗し 瀬戸内の覇権どころではなくなります。
一方 同じくこの年、伊予の盟主的な河野氏の大きな内紛も起こり
一族がまとまる為の求心力としては、もっと現世的な利益誘導が必要となります。
こうして鶴姫は歴史の表舞台での出番が無くなったのではないでしょうか。
 当時は現代と違い医療が充実していません、自殺でなくても、
風邪をこじらせたかと思っていたら、あっという間に儚くなる事も有り得ます。
そんなで本当に18で亡くなったのかもしれません。
あるいは単にNameLessな一般人に戻って、普通に女性としての一生を過ごし
やがて海に帰ったのではなく、土に還ったのかもしれません。
ただ それは彼女の不幸せを意味するとは思えません。
それならそれで、大阪の恵比寿神社の福娘のように、地方の実力者の元に
縁起の良い奥方として嫁いで行ったのではないでしょうか。
歴史の表舞台に立ち続けることに生き甲斐を感じる為には
トレードオフで平凡な人間なら大事にしたい何かを失うと言う事になりがちですから。
PR


HOME